旅女な歴女

ゆるめの歴女が旅して本読んで...

映画語り - 「ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男」

先日ハノイから香港へ日帰り出張をしました笑
 
しかも香港からの帰りはハノイへの直行便が取れず、飛び越えてホーチミン経由笑笑 
飛行機滞在時間だけ考えると日本帰れます...
 
鬼のようなスケジュールとはいえ、機内では自由時間!
キャセイパシフィック航空の映画のラインナップを見たら、なんと!
 
 

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今年のアカデミー賞では、メイクアップ&ヘアスタイリング賞は、この映画で主演のゲイリー・オールドマンの特殊メイクを担当された日本人の辻一弘さんが受賞されました。
 
鑑賞後、ウィンストン・チャーチルと、その時代のイギリスはどういった時代だったのか改めて勉強し直しました。
 

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ウィンストン・チャーチルは第一次世界大戦中、英国の海軍大臣、軍需大臣として戦争を指導、第二次世界大戦中は1940年から首相として1945年まで戦争を主導しました。
 
パッと見輝かしい経歴のように感じますが、実は多くの戦いで惨敗を重ねています。
 
第一次世界大戦中は、ベルギーのアントワープ防衛、ガリポリ上陸作戦に惨敗し、大臣を辞任しました。
 
ロイド・ジョージ内閣で軍需大臣として再入閣し、第一次世界大戦後は戦争大臣と航空大臣に就任します。
 
ロシア革命後は植民地大臣として、イラク・パレスチナ政策、ユダヤ人のパレスチナ移民政策を進めました。
 
ナチス・ドイツが台頭してきてからチャーチルは、徹底的にナチスとの融和に反対します。
 
第二次世界大勃発後は、海軍大臣として閣僚に復帰します。
 
ドイツがノルウェーとデンマークへの侵攻への戦いには惨敗しますが、この敗北の責任は首相のチェンバレンへと帰し、後任として1940年首相に就任します。
 
映画の「ウィンストン・チャーチル」はまさにここから描かれます。
 
チャーチル首相就任時は、度重なる敗戦や失策、強硬な姿勢で敵だらけでした。
 
そして、この映画は「ダンケルクの戦い」を知っていたら何倍も興味深い映画となるので、観ることを検討している方は是非2017年に日本で公開された「ダンケルク」を観てからの方がオススメです。
 
(併せて「英国王のスピーチ」を観ておくこともオススメします。ジョージ6世の喋り方が…)
 
首相に就任して直後、チャーチルは大きな決断を迫られることになります。
 
対独西部戦線の激戦地の一つ、フランスのダンケルクで英仏連合軍はドーバー海峡を背にし、ドイツ軍に迫ってこられており絶体絶命の危機に直面していました。
 
ダンケルクに取り残された兵士は英仏合わせて約35万人。
 
この兵士たちを救出するために、チャーチルは軍の輸送船のみならず、小型艇、駆逐艇、民間船(漁船、ヨット含む)などあらゆる船舶を総動員し、兵士を救出せよという指令を出します。
 
世に言う「ダイナモ作戦」です。
 
最終的に860隻の船舶が導入され、ダンケルクから兵士の救出に向かい、多くの兵士が故郷に帰ることができました。
 

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しかし、この作戦の成功の裏で、フランスのカレーに取り残されていたイギリス軍はドイツ軍の注意を引きつけるために救出されませんでした。
 
3万人の兵士の命も失い、戦車、火砲、トラックなど重装備を放棄せざるを得ず、以降イギリスは戦力不足に悩まされましたが、人的資源という国のために最も大切なものを守ることができました。
 
 
1941年に日本が大戦に参戦してから、イギリスは東方の植民地を相次いで失っていきます。
対ドイツ戦も敗北し、大英帝国の威信が軒並み下がり続け、インド、エジプトでは反英闘争が勃発します。
 
1944年、ノルマンディー上陸作戦の成功を経て、翌1945年ドイツは降伏します。
 
イギリスでは労働党の挙国一致内閣は解散し、チャーチルの保守党は総選挙で敗北し、チャーチルは首相から退くこととなります。
 
第二次世界大戦後、イギリスは多くの植民地を失い、大英帝国は崩壊しました。
 
1951年、チャーチルは首相に再任し、アメリカ、ソ連に続き原爆保有を実現し、東南アジア条約機構(SEATO)参加など反共政策にも努め、1955年政界から引退をしました。
 
 
 
ナチスドイツと融和政策を取ろうとする周囲に対し、揺らぎつつも断固として戦い続けることを貫いたチャーチルがいなかったら、今のイギリスはなかったかもしれない。
 
ダンケルクに取り残された兵士達はそのまま救出されず、命を落としていたかもしれない。
 
でも強力なリーダーも、裏では色々悩み、迷い、葛藤して、どういう言葉を選べば人に響くかと試行錯誤を繰り返している姿がとても印象的でした。
 
ところどころに笑ってしまうシーンもあります。
 
そして「自分は国民のことを何も知らない…!」と終盤に「ある行動」に出るところ。
ネタバレになってしまうので書きませんが、個人的にはすごくグッときて、涙をこらえてしまいました。
 
その場面からのラストシーン、最高です…!
鳥肌が立ったままエンディングを迎えました。
 
今年のアカデミー賞、この映画でゲイリー・オールドマンは主演男優賞を受賞しました。
納得、の一言です。
 
基本的に映画は邦画でない限り、英語と日本語字幕で観るのですが、残念ながら機内の上映はそんな選択肢はなく日本語吹き替えで観ました。
 
もちろん日本語でも最高に面白かったのですが、もう一度ゲイリー・オールドマンの「声」で観たいです。
 
日本では3月30日公開。ぜひ多くの人に観ていただきたいです。
 

読み物語り - 「芙蓉千里」/須賀しのぶ

久しぶりにシリーズ物の大河ロマンを読みました。
まさに一気読みです。
 
「芙蓉千里」ー 須賀しのぶ
 

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辻芸人の娘として1人で生きてきたフミが、「自ら」女郎になるために海を渡り、明治40年、中国(大陸)の哈爾濱(ハルビン)へ渡るところから物語が始まります。
 
一緒に海を渡った、「売られてきた」タエと哈爾濱内の魔窟・傅家とんの置屋「酔芙蓉」で雑用の赤前垂れとして、女郎を目指して奮闘します。
 
置屋の雑用係として日々過ごすフミは、哈爾濱で先輩女郎からそれぞれの女の生き様を目の当たりにし、また日々の生活から広い世界を学び、そして初恋の相手・山村健一郎と出会います。
 
辻芸人として見よう見まねで舞を舞っていたフミは、次第に本格的に舞の才能を開花させ、女郎ではなく芸妓の道に進むことになります。
 

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フミの舞の才能に心底惚れ込んだ、ワケあり日本人実業家・黒谷に見初められて一度は落籍されます。
 
折しも明治、大正期の大陸の情勢はロシア革命以降大混乱。
とある事がきっかけでフミはいつのまにか馬賊の頭となった初恋の相手、名前を楊建明と変えた山村健一郎と再会します。
 
ある事件がきっかけで、穏やかで、芸妓としては百点満点の生活を提供してくれる「旦那」である黒谷の元から姿を消し、芸妓であることを捨て、初恋の相手を追いかける決意をします。
 
そして再会を果たした楊建明率いる馬賊の一員として、モンゴルの独立運動に加わっていく...

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ざっとあらすじ的にはこんな感じです。
 
歴史大好きですが、不得手な時代はありまして、近現代史になってくるとちょっと苦手です。笑
 
その為、「あれ、この人はどっち側の人だっけ??」と、状況を途中整理しながら読み進めました。
 
でも当時の哈爾寶の「魔都」のような感じ、あまり知らなかった大国に囲まれながらのモンゴルの独立への動きなど本当にドキドキしました。
 
哈爾寶といえば自分の中では中学生の時に読んだ、なかにし礼さんの「赤い月」の印象がとても強いです。あの時も哈爾寶という不思議な町の響きに夢中になりました。
 
東洋と西洋の交わる場所といえば、トルコのイスタンブールがすぐに挙げられると思いますが、哈爾寶も西洋(ロシア)と東洋(中国、日本)が交わっているのではないでしょうか(実際に行ったことがないので想像の範囲ですが)
 
う〜ん、やっぱり一度は行ってみたい…近いようで、ちょっと遠いかな…
 
物語のスタートは「女郎屋」のため、本来であれば目を背けたくなるような話もあるに違いないのに、この話の中ではその現実を匂わせつつも、決定的には描かれていないので、ちょっとそういう話は…と思う人も大丈夫です。
 
物語を通して数多く印象的な女性達が現れます。
 
「大陸一」の女郎になるはずだったのに、「大陸一」の舞姫となり、遂には馬賊の一員となるフミ
 
女郎になるのを酷く怖がったにもかかわらず、置かれた場所で自分自身の大輪の花を咲かせたタエ
 
己の信じた道を突き進んだ先輩女郎達
 
革命から逃れ、異国の地で地に足をつけたロシア人バレリーナ
 
自分の方法で、命をかけて我が子を守った母親
 
 
どの女性もその時その時、自分が正しいを思った道を突き進んでいきます。その姿が非常に強く美しく、魅力的でした。
 
 
男性の登場人物も皆かっこいいんですよ…
 
何処の国にも属さない、風のように大陸を駆け巡った楊建明
 
孤独から自分を救ってくれた義兄弟の建明に従い、大事なものを守り続けた呉炎林
 
訳アリの過去からフミを通じ、生まれ変わっていく黒谷貴文
 
 
4巻目からの呉炎林、ほんと好きでした笑
 
 
「馬賊」っていうと、どうしても「はいからさんが通る」の鬼島軍曹を思い出してしまいます。笑
 

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番外編の「鷺草物語」では泣いて泣いて、ついに心を開けた環ちゃんとその後はどうなったの!?と今でも気になります。
 
「芙蓉千里」の中でも馬賊のメンバーは、(特に呉炎林は代表格のように感じましたが)基本的にはぶっきらぼうで、心を開いていない相手にはとても冷たい印象です。(飽くまで物語の中での設定ですが)
 
でも心を開いていくにつれて口数が多くなり、優しい一面を表し始めていく過程が個人的にはたまらないです…
 
「はいからさんが通る」で鬼島軍曹にはまった方は、きっと「芙蓉千里」にもきっとハマるはず…
 
 
昨年末に読んだ「神の棘」から、須賀しのぶさんの作品にすっかりハマってしまいました。
 
特に第二次世界大戦中の欧州が関わってくる話は、よく調べられていて、非常に重厚感ある作品だと思います。
 
次は「革命前夜」を読もうかな…

拝啓、レオナルド・ダ・ヴィンチ様 ー 万能すぎる天才ぶり

生家のアンキアーノを後にし、元来た道でヴィンチ村へ。
 

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ヴィンチ村にはレオナルドが洗礼を受けた「サンタ・クローチェ教会」と「レオナルド博物館」が2つあります笑
 
2つのレオナルド博物館では、レオナルドのデッサンや、そのデッサンを元に復元された数々の発明品が展示されています。
 
レオナルドが解剖した人体図、筋肉のデッサン、内臓のデッサンや立体模型も展示されていますが...彼は人間の頭部も研究しています。
 
絞首刑にされた死体をスケッチして人々を驚かせたとのことですが、「人体」というものに今までの人とは違う形で興味を持ったということですね。
彼は妊婦の死体も解剖して、妊娠のメカニズムも研究したとか…
 
実際には使用されることはなかったけれど、戦車や一度に何発も打てる大砲の復元模型も展示されています。
 
当時のイタリア半島の情勢を考えると、軍事にも関心を持つのは自然なことだったのかもしれません。
 
彼は鳥類も研究していたので「飛行」というメカニズムにも関心を持っていました。飛行機のデッサンも残っていました。
 
そしてびっくりしたのはコレ…
 

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一瞬黒死病の時のマスクかと思いました笑
よく見たらスキューバダイビング用のスーツでした笑笑
 
もしもこれが実用化されて、何も知らず海に行って、目の前にこれを着用した人が現れたらめっちゃびっくりするだろうな笑
 
「レオナルド・ダ・ヴィンチは絵画に限らず色々なものを発明した」というのは皆承知の事実かと思いますが、実際に立体模型として復元するとよくここまで考えられたな...と改めて感心してしまいます...
 
外にはレオナルドの有名なデッサン、「ウィトルウィウス的人体図」の模型もあります。
(デッサンの方がいいな...笑)
 

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そしてサンタ・クローチェ教会へ。
 

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これがレオナルドが洗礼を受けた洗礼堂。
 

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教会はたまたま誰もいなかったのですが、まさに内部は「無音」。
 

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よく漫画で沈黙を「シーーーーーン」と描写するがありますが本当にそんな感じでした。あまりに音がしないので、一通り見たら怖くなって出てしまいました(チキン)
 
ヴィンチ村は小高い丘の上に作られたとみられる村なので、小さい空間の中にアップダウンがたくさんあります。(ブラタモリして欲しい)
 

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歩きやすい靴履いてて良かった...
 
レオナルド博物館はちょうど中学生くらいの子達が社会科見学中でした。
 
あぁ、イタリア語がわかったらきっとこの解説も面白いんだろうなぁと横目で見つつ、レオナルドの生まれ故郷で、彼のことを学ぶことができることがどれほど凄いことか、大人になったらわかるよ…と心底羨ましくも思いました。
 
それにしても絵画だけでなく、土木技術者、都市計画者、建築家としての才能にも恵まれたとか…
 
万能すぎますね笑
 
レオナルドは生涯の中で以下のビッグプロジェクトに加わっていたそうです。
 
1487年頃(35歳)運河を中心とするミラノの都市整備計画
1494年頃(42歳)ミラノの「マルテザーナ運河」工事の設計監督
1503年頃(51歳)建築技術監督としてアルノ川水路開削計画
1509年頃(57歳)上記開削工事の設計監督として従事
1516年頃(64歳)フランスのアンボワーズにてシェル川の一大水利事業計画を立案
 
実現はしなかったけれど、「彼が計画した」ミラノを見てみたかったです。
 
1484年から翌年にかけて、ミラノにペスト(黒死病)が流行し5万人が亡くなりました。当時レオナルドはミラノのスフォルツァ家に仕えていました。
 
自分が住んでいる街の惨状を目の当たりにし、人々が一箇所に密集して住むのは不衛生だとし、分散させて住むような都市計画を立てていました。
 
長尾重武著「建築家レオナルド・ダ・ヴィンチ-ルネサンス期の理想都市像(1994年)」の中では、
 
「中央に大きな広場があり、回廊が巡らされている。それを中心に道路、運河が対象的に配されている」
「道路の幅は家の一般的な高さと同じに」
「風、光、清潔さが行き渡ることを保証」
 
と、記載があります。
 
伝染病の蔓延を防ぐには風通しの良さ、太陽の光が入ることが重要であることをもうわかっていたのですね…
 
レオナルドの多方面にわたる類い稀な才能は、時の「天才策士:チェーザレ・ボルジア」の目にも止まりました。
 
レオナルドは1502年から約8ヶ月間、建築技術監督兼軍事顧問として、チェーザレの軍と共に行動しました。
 
チェーザレが1502年にレオナルド・ダ・ヴィンチのために発行した、領有国内の自由通行を許可した証明書の中には、
 
「親愛なる、そして優秀な建築家であり、軍事技術家であるレオナルド・ダ・ヴィンチに〜」
 
と書かれていました。
 
「君主論」を残したマキャベリにも愛されたチェーザレ・ボルジアにここまで言わせるなんて、才能豊かだっただけでなく、人間的にも魅力的な人だったんでしょうね…
 
ああ、やっぱり会ってみたいなぁ...
 

拝啓、レオナルド・ダ・ヴィンチ様 ー お宅訪問@Vinci

2018年2月13日から20日まで、ベトナムの旧正月休暇を利用してイタリアへ行きました。
今回の旅の大きなテーマの一つは、「レオナルド・ダ・ヴィンチを辿る」こと。
 
もう少し休みが長ければ、イタリア縦断!とかやってみたかったけど、じっくり美術館も回りたかったので、今回はミラノとフィレンツェの二都市に絞りました。
 
さて、皆さんには「死ぬまでにしたい100のこと(Bucket List)」はありますか?
私は今このBucket Listに書いている途中です。
 
 
たくさんやりたいことはあるはずなのに、いざ書き出してみるとなかなか書けず、私も今81個まで書きました。
 
その中で、今すでに確定しているBucket Listの「ダ・ヴィンチの生家」に行く。
これを今回実現させてきました。
 
フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ駅から国鉄に乗り、約30分かけてエンポリ駅へ。
天気は生憎の曇り空。
 
駅の売店でヴィンチ村までのバスのチケットを購入。
バスの待合室?のようなところで「ヴィンチ村まで行くバスは?」と聞いて、教えてもらった4番のバス停へ。
 

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もともと静かで小さいエンポリ駅周辺を離れると、あっという間に景色が変わり、ところどころにVinciと出てきて、いつ降りればいいのだろうとドキドキしていました笑
 
乗車時に「ヴィンチ村で降りたい」と運転手さんに伝えていたのを聞いていた乗客の一人が気を利かせてくれて、ヴィンチ村に着いたら教えてくれました…良かった。
 
でも冷静に見渡すと「ここで降りるしかないだろう」という場所でした。
おとぎ話に出てくる小さな王国の麓の町、っていう印象。
 

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ダ・ヴィンチの生家はヴィンチ村から更に30分ほど歩いた(軽いハイキング)アンキアーノというところにあります。
 
タクシーを使うこともできるけれど、美しいトスカーナ地方の森を楽しみながら歩いて行くのも非常に楽しいです。
 
時々道を間違えていないか不安になりますが、地味に道案内(矢印)が出ているので迷わず行かれます。
 
「ANCHIANO CASA NATALE DI LEONARDO」
 

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この標識が見えたらいよいよです。
 
少し見上げたら石造りのこじんまりとした家が現れます。
ここが人類史上最高の万能の天才、レオナルド・ダ・ヴィンチが生まれた家です。
 

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1452年、レオナルドは公証人のセル・ピエロと、農家の娘のカテリーナとの間に「非嫡出子」として生まれました。
彼の出生名は「レオナルド・ディ・セル・ピエロ・ダ・ヴィンチ」。つまり「ヴィンチ(出身)のセルの(息子)のレオナルド」ということになります。
 
実はレオナルドの幼少期はほとんど伝わっていないようです。
私が初めて読んだ「学習漫画 世界の伝記シリーズ」の中では、このアンキアーノの豊かな自然の中で生き物に興味を持ち、スケッチをする姿が描かれていました。
 
実際にこの地を訪れると曇っていても素晴らしい自然が広がっていて、自ずと生き物そのものに興味を持ち、後のダ・ヴィンチの絵の生き生きとした生命の表現や、スフマートといった独自の技法を生み出すことに繋がっていくということに納得できました。
 
16世紀の画家で、ルネサンス期の芸術家達の伝記『画家・彫刻家・建築家列伝」を執筆したジョルジョ・ヴァザーリは以下のエピソードを記しています。(上述の「世界の伝記シリーズ」にも描かれています)
 
ある日父親のセル・ピエロが近所の人から盾の装飾を頼まれたところ、息子のレオナルドに装飾を任せてみました。すると彼は盾に怪物(メデューサ?)の顔と周辺にはカエルやコオロギ、ヘビなどリアルに、かつグロテスクに、見事にそれらを描いたのです。(盾だから目の前の敵が怖がらないといけない、と…)
 
あまりの見事さに驚いた父は、本当の依頼主にはハートに矢の刺さった「買った」盾を渡し、息子が描いた盾はさらに高値で「見る目がある方に」買ってもらった…と。
 
私は飽くまで世界の伝記シリーズで読んだ話なので諸説あるでしょう。
ですが、この一件から父親は息子を芸術家の道に進ませることを決意するのでした。
 
お父様、心からありがとう!!!!
 
 
さて、肝心の御宅は小さい部屋が二部屋のみの、本当に本当に小さな家…
現代っ子としては「お風呂は!?トイレは!?台所は!?」といろんな意味でキョロキョロしてしまいました…
 
二つの部屋のうちの一部屋で、イタリア語と英語でダ・ヴィンチの生涯を語る映像が流れています。ダ・ヴィンチの生涯を多少知っていれば、内容把握は全く問題ないです。
 
この小さい家で、幼き頃の「万能の天才」は一体何を見ていたのだろう。
この素晴らしい自然は、彼の目にはどう見えていたのだろう。何色に見えていたのだろう。
 

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もしも今日が青空だったら、一体どれだけ美しかっただろう…
 
何百年も前の芸術家に、恋をしてしまったかのように色々な思いを馳せてしまいました。
 
平日の朝一番に、張り切りすぎて開館前に行ってしまい、特別に開けてもらったためずっと一人でした笑(寒空の中開館を待っている日本人女性は、かわいそうに映ったのかも…)
 
その分じっくりじっくり色々なものを見て、感じられるので、やはり「早起きは三文の得」。
 
万能の天才も見たであろう景色を見ながら、再びヴィンチ村に向かいました。
 
 

「ハノイ」について思うこと その2

ほんと、みなさんどこでも快適に眠れて羨ましい。

 

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でもこれはちょっと事件の香りしかしない笑笑

ほんと、びっくりしました。

 

これもいずれ起こる、かもしれない戦いに備えているんですかね笑

ハノイについて思うこと

ベトナム・ハノイに住んでから早2年7ヶ月。
最低3年と言われて駐在員として出されて、あの時は果てしなく遠く感じた3年の壁をもうすぐ突破するとは、月日の流れはなんと早いことでしょうか。
 
ではもう帰任か?と言われたら、そんな話はいっっっさい出ていないので、まだ1年くらいいるのかもしれません。
 
一度旅行で来てみたいとは思っていたけど、結局来る機会はなく、予備知識ゼロでハノイへ笑
 
せめて歴史くらい勉強してから来れば良かったのに、歴女と自負する割にはアジア史不得意。ベトナムと言えばベトナム戦争くらいしか知らないと言う残念ぶりw
 
調べてみるとハノイもなかなか面白い場所ではあるのですが。
 
ベトナム・ハノイが歴史の舞台に登場したのは7世紀ごろ。
中国が唐の時代だった頃、交易の要所として唐の南方支配を受けました。
その後ハノイの重要性は一時的に薄れましたが、再び11世紀ごろに李朝を興した李太祖(リー・タイ・トー)が、前王朝の都・ホアルーから首都をハノイに遷しました。
 
1873年からはフランスの統治下に入り、1887年以降は仏領インドシナの中心になりました。
1940年からは一時日本の占領下にも入りましたが、日本の敗戦により占領は終了。1946年には「ベトナム民主共和国」として独立宣言をしました。
 
しかしベトナム戦争が勃発した1960年代は米軍の爆撃を受け、街は被害を受けたとのこと。ベトナム戦争終結後は「ベトナム社会主義共和国」として独立しました。
 
ベトナムの街の中の通りの名前は、ベトナムの歴史に大きく関わった人の名前から付けられています。
 
だから世界史を受験で勉強した人は、聞いたことある名前が多いかもしれないです。
上述のリー・タイ・トーを始め、ファン・ボイ・チャウとか…
 
 
旅行で来たことがないから旅行者の気持ちと、在住者の気持ちの対比はできないけれど…
駐在員を始め、現地採用で働いている日本人も大勢いるので、大きく不自由はしていないけれど、
年々ひどくなる大気汚染を始めとする環境ストレスで、大変な思いをしている人は結構います。
 
体調が悪くなっても日本のような最先端の医療は揃っていないので、不安な思いをすることも多々有ります。指定された病院とはいえ、ハノイから1時間近く離れた場所の病院で、静脈麻酔をされ胃カメラを飲んだ時は正直生きた心地はせず…
 
暮らしていく上では大変なことも多々有りますが、旅行で2〜3日の滞在であれば、フランスの影響を受けた綺麗な建物と、東南アジア独特の喧騒が共存する不思議なこの街は結構好きになるかもしれません。(バックパッカーの人めっちゃ多い)
 
ベトナムに「初めて」来た人は何に驚くでしょうか…
 
私はやっぱりバイクの多さでした笑
あるような無いような交通ルールなので、みんな縦横無尽に好き放題バイクで走るから、車もバイクも全然スピードを出せないので、地図上では近い距離も30分から1時間かかることもザラ!
 
ブランド物(ネーミングバリューがあるもの)がベトナム人は好きなので(要は見栄っ張り)、大体みんなHONDAかYAMAHAのバイクに乗っています。
 
次に驚いたのは、平日の真昼間にもかかわらず、絶対に働き盛りの男性がずっとコーヒーを飲んでいたり、釣りをしていたり、バイクの上で絶妙なバランスで昼寝をしていたり…
(逆に言えば女性がものすごい働き者)
 
なぜ男性は働かないのか…色んな話を聞きましたが、また戦争が起こった時いつでも戦えるように体力を温存しているという説には笑いました笑笑 いつまで温存するの笑笑
 
先日中国の「アリババ」のジャック・マー会長が来越した際この光景を見て、「大きな損失」と言ったそうです。まあそうでしょうね笑
 
幸せのハードルが低い、今が幸せだからそれで良いという気質は良い面もあるけど、結局将来どうなりたいのかな?としょっちゅう考えてしまうのです。